20年かけて夫婦関係を改善!札幌在住・夫婦修復カウンセラー 実佐です。
さて、「20年かけて夫婦関係を改善!札幌在住夫婦修復カウンセラー」を名乗っている割に、夫婦の事について全然触れてこなかったので、そろそろ私の夫婦関係についての歴史を書いていこうかと思います。
何だか怖くて向き合えなかった私の結婚生活について、お話ししていきますね。
私は学生の時、当時付き合っていた夫との間に子供が出来て結婚しました。
いわゆる”できちゃった婚”です。
今は授かり婚という言い方をすることが多いですが、その当時、そんな言葉はありませんでした。結婚前に妊娠するなんて恥ずかしい事という認識がまだまだありました。
ましてや自分たちは学生の身。
なので結婚に当たっては私自身が相当悩みました。
妊娠がわかってから夫には話をし、「産んでも産まなくても、実佐が決めていい」という言葉を貰いました。
この前後にはもちろんほかにも言葉があったのですが、これってどうなんですかね。産むなら自分もきちんと育てるという覚悟は一応伝わったのですが、正直
・・・丸投げ?
という気がしたのも正直なところです。
私は大きな決断を一人ですることになりました。
今思えば、不安な気持ちとか、お互いどういう気持ちでいるのか、どの程度の覚悟があるのか話し合ったりすればよかったのですが、この時私は自分が一人で考えて決断しなくてはいけないんだとかなり苦悩しました。
どうしていいか分からず、決めることが出来ないまま時間だけが過ぎました。
どうせなら「産まないで欲しい」と言ってくれた方が良かった、と思う事もありました。
自分でもどうしたいのか分からない状態なので、すぐに両親に話すことはできませんでした。
絶対に怒られることが分かっていたし、赤ちゃんを諦めるという選択も出来ませんでした。今思えば、すぐに言ったら今回は諦めろと言われるのがおちなので、あえて黙っていたのだと思います。
そう、私は妊娠したからには子供を産むと初めから決めていたんです。
そのことに気づいたのはここ数年です。
話を戻して、、
もういよいよ大きなお腹を隠すことが出来なくなったころ、夫を連れて両親に話をしに行きました。
「子供が出来たので娘さんと結婚させて下さい」と言ったのは夫でした。
私は自分が決めたことなのに、この先の不安や親への申し訳なさなどからただただ泣いていました。
当然ながら、父からはいったい何を考えているんだという説教、母はずっと泣いていたかと思えば最後に暴言を夫にぶつける始末で修羅場もいいところ。
私の両親と夫との初対面は最悪の状態になりました。
日を改めて両家の両親も交えて話をすることにし、その日の話し合いは終了。
最初は取り乱していた両親ですが、起きてしまったことは仕方がないと数日かけて冷静さを何とか取り戻したように見えました。私は家で両親からぐちぐちと嫌味を言われつつも、出産までは実家にいるしかなく、とにかくもめごとか怒らないように暮らしていたような気がします。
不安は大きかったのですが、両親を反面教師にして夫婦仲良く楽しい家庭を築こう、自分と夫ならきっとできると思っていました。ただ仲良く暮らすという事がとても大変なことだと気付くのは結婚してすぐだったのですけど。
その後夫の両親にも話をし、出産直前に入籍。
出産後1か月は実家で暮らしました。
この時両親は思いのほか赤ちゃんを可愛がってくれ、ほっとしたことを覚えています。
その後公営住宅での家族3人暮らしが始まりました。
夫の両親がしてくれる少しの仕送りと、夫のバイト代で暮らす貧乏生活。
その中から赤ちゃんのおむつとミルク代を捻出し、食べるのが精いっぱいでした。正直どうやって生活をしていたのかほとんど記憶がありません。
赤ちゃんだけは産んだ責任があるからちゃんと育てなければという精神力だけで生活をしていました。
最初のころは3時間おきにミルクをあげるために、毎日寝不足の日々。その中での炊事や洗濯などの家事。
子供を連れては気晴らしにも行けず、育児の大変さを目の当たりにして若かった私は戸惑う事ばかり。どうして結婚したのか、このまま幸せに暮らせるのか、不安で仕方がない日々を過ごしました。
子供が1歳になったころ、夫が就職をし生活は少し安定をしました。
ですが、ちょっとだけでも子供の面倒を見てくれたそれまでとは打って変わり、育児と家事はすべて私の仕事になりました。
全く協力を得られないことに抗議もしてみましたが取り合ってもらえず。
このことが後々私の中で離婚を考える要因の一つになっていきました。
その後第2子を出産するのですが、そこからはさらにワンオペ育児が辛くなり、夫ともギクシャクした関係になっていきます。
読んでいただきありがとうございました。
またお会いできると嬉しいです。
心理カウンセラーの実佐でした。
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